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ラ・ラ・ラ・メディテーション

ラ・ラ・ラ・メディテーション

共依存セラピーノート

以下は、コ・ディペンデンシー(共依存)セラピーについてのクリシュナンダとヴスマーティーの対談
(OSHOタイムス1996年9月 No.87)からの抜粋ノートである。
鍵

依存。必要が満たされない、それを分かち合う相手が誰もいない感じ、親密な空間がない感じ、
その感情をじぶんではどうすることもできないので相手を自分に引きつけようとし、要求し、すね
て、閉じこもる、最後には報復したくなる。何かを望み、待ち、そして必要とする状態。非常に痛み
に満ちた場所。むなしさの経験。放置されることの傷。

独立(反依存)。巻き込まれることの傷。息苦しさ、自分自身を見つけるために空間や機会がない
と言う体験。関係性における反依存のパートナーはたえず巻き込まれることを恐れる。この人は
常に人を押しやって、「あまりそばに寄らないで欲しい。自分の空間が必要だ。君の必要を僕にお
しかぶせないでくれ。僕には自分の自由を体験する必要がある。」と言い続ける。

子供の頃私たちは両親から二つの基本的な傷を受け取る。それは放置されることと、巻き込まれ
ることの傷。これらの傷は私たちが大人になってからの関係で何度も繰り返し演じられる。
基本的には愛の関係性の中でそれぞれ自分たちの必要としているものが相手とは違ってくる時
点で問題が始まる。個人の発展、学び、成長が異なっている以上、これはどうしても起こらざるを
えない。
互いの必要が異なっているとき、その関係の状態を、依存と反依存に分極化しようとする傾向が
ある。そしてその二つが葛藤する。これは押すことと引くこととの葛藤。

このふたつの傷を理解する事が何よりも大切。過去から反応ではなくその瞬間に対応することそ
の二つの違いは大きい。そしてパートナーとは対話が始まる。相手が自分の満たされない必要を満
たすことはないということを認識すること。結局相手を自分が子供の頃に持ち得なかった愛に満
ちた親にすることはできない。自分が自分自身に対する責任を取り始めた瞬間、たとえ同じ感情
が起こってきたとしても共依存していない。人が共依存しているときというのは、その人が相手に
自分の全ての必要を満たさせようとしているとき。

傷ついた内なる子供の言葉を導入する。子供の頃から抱えている、不信を理解する。Miss
Trust。
我々が内なる子供について語るとき問題にしているのは傷つきやすさについて。


鍵

道具:内なる子供を連れ出して一緒に瞑想する。すべての上に座って、自分の感情を見下ろし、
それから自分を切断しようとするのでなく、居心地の悪い痛みに満ちた感情と直接関わる。座っ
て目を閉じて。包含するということ。その感情を誰かに向かって投げつけたり、自分から引き離そ
うとするのではなくて、自分が体験しているその感情とただ座る。泣くことが必要なら泣く。 でも
全てを受け入れる。これが自分の中により深く入っていく助けとなる。そして最後には十分に座っ
ていれば空と平安の空間にふれる。それで共依存で関係するという脅迫的衝動が破壊される。

通常、関係性の中で事態が困難になったら人には自分が感じていることに関して他人を攻める
傾向がある。その攻めを自ら認めることが、癒しに向かう第一歩。攻めることを越えて責任という
意識へ進む。第一歩は、自分の攻めを見つめそれを自分のものとして取り戻す。


恥。自分はオーケーでないという深い内面の感じ。何をしても不的確な感じ。これは親が(大人
が)子供をしつける(子供の意志を抑圧し破壊する)ための正統的な文化によって用いられた方
法。子供がすべての自然な感情に辱めを受ける。親「そんなことしたら恥ずかしい」、世間体。感
覚の部分。 信じられないような破壊的効果を持つ。
私たちの多くは自分の恥に(シェイム)気づいてすらいません。私たちがすることが代償行為であ
り、大いに努力して自分がオーケーであり、愛されることに値する人間だと証明しようとするので
すが、その底流には自分がそれに値しないと言う深い感情が続いている。そしてこの愛に値しな
いと言う感情が人生において拒否されることへの期待を何度も何度も生み出すのです。
どのようにして恥を認識するか。我々が人を喜ばせるためにする全てのことは、恥に基づいてい
る。

理解と認識によって、傷を癒し、分かち合いを通じて人は信頼を生み出す。

ショックとは何か。内面の麻痺状態。トラウマが余りにも深くおびえきってしまって、エネルギーが
凍ってしまう、考えることができない、混乱する、話したり動いたり、感じることができない。
それはどの様に表出するか。それは私たちが相手からの期待を感じるとき、私たちはそれと気づ
かずにショックに陥る傾向がある。

自分が見捨てられていることを本当に感じてその中に入っていく。人はほとんどの時間を費やし
て、相手を操作しようとする。自分が見捨てられていることを感じなくてすむようにするために。そ
れをコントロールと呼ぶ。このコントロールを手放し見捨てられているという傷の中に入っていくこ
とは最も重要で強力なやり方。見捨てられる感覚をさけるための二つのやり方。ひとつは耽溺。
自分の望むものが得られないと言うその感情を否定する方向に向かわせてくれるものや事柄に
耽溺する。これらはなんであれ、それはその事実を深い内面で内なる子供が暴力を受けて怯え
ていると言う事実を避けるために利用されているだけなのです。それはたいそうなことでなく誰か
が今日はと言わなかったり、さようならと言わないだけで、内なる子供は見捨てられたと感じる。
誰も良い子供時代など過ごしていない。子供の頃から全面的に開いて、全面的に信頼して大人
の生活と関係性へとはいってきた人は誰もいない。私たちはみんな傷を持っている。 世界は私
の面倒を見る義務があるという犠牲者の感じというのは傷の乱用である。自分が責任を取れば
癒しの旅は尊厳と自己信頼への旅となる。これは他人や社会への要求ではなく、自分自身の完
全性への旅となる。




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